妙秀山 樹源寺
みょうしゅうざん じゅげんじ
物件情報
Property information
横浜の爽やかな風が吹き抜ける、 見晴らしの良い小高い墓域。
〈妙秀山 樹源寺 縁起〉
樹源寺は、元々は鎌倉時代末期までは「東方山 医王寺」という真言宗の大きなお寺でしたが、その後薬師堂のみを残し兵火にのまれて廃寺同然となっていました。
その後、寛永年間(1624~44)に保土ヶ谷宿本陣 刈部吉重の奥方が日蓮宗の宗祖である日蓮聖人の教えに帰依して妙秀尼と号し、焼け残った薬師堂の大ケヤキの傍らに庵を結びました。
そして、師の善通院日了上人を招いて開山し、日蓮宗総本山 身延山 久遠寺の末寺として「妙秀山 樹源寺」が誕生しました。
医王寺であった頃からの名残りである薬師如来は、病を平癒し苦悩を救う仏様として長い間信仰を集めており、昭和54年の日蓮聖人第七百遠忌報恩事業の一環として建立された講堂の中に今も安置されています。
境内にあった700年以上の樹齢を誇る大ケヤキが寺号の由来となっています。(樹齢を全うし枯れてしまったため残念ながら昭和45年に伐採されました。)
この大ケヤキの主が、樹源寺の第二十一世日健上人の夢枕に現れたという話が伝えられています。
「上人この時大病で茅に横たわっていると、夜中天女が来て申すには、我は欅の空洞に棲む白蛇である。朝夕響く法華経読誦の声にもはや成仏の因も芽してきた。即ち我を源龍大善神と敬いくれるならば、汝の病、たちどころに平癒するであろうと告げると思えば夢醒めた。そこで早速、欅の洞穴に小祠を設け祈ると、忽ち快癒してしまった、それからこの大樹にしめ縄を張りめぐらした。」(この文章は昭和42年12月29日付普通新聞に掲載されたものです。)
〈樹源寺墓所について〉
・過去の宗旨・宗派は問いません。
・ご遺骨のない方でもお求めいただけます。
・南向きに開けた、陽当たりの良い小高い丘に立地する墓域。
・明治末期から大正期にかけて活躍した劇作家 山崎紫紅の墓があります。
〈妙秀山 樹源寺 縁起〉
樹源寺は、元々は鎌倉時代末期までは「東方山 医王寺」という真言宗の大きなお寺でしたが、その後薬師堂のみを残し兵火にのまれて廃寺同然となっていました。
その後、寛永年間(1624~44)に保土ヶ谷宿本陣 刈部吉重の奥方が日蓮宗の宗祖である日蓮聖人の教えに帰依して妙秀尼と号し、焼け残った薬師堂の大ケヤキの傍らに庵を結びました。
そして、師の善通院日了上人を招いて開山し、日蓮宗総本山 身延山 久遠寺の末寺として「妙秀山 樹源寺」が誕生しました。
医王寺であった頃からの名残りである薬師如来は、病を平癒し苦悩を救う仏様として長い間信仰を集めており、昭和54年の日蓮聖人第七百遠忌報恩事業の一環として建立された講堂の中に今も安置されています。
境内にあった700年以上の樹齢を誇る大ケヤキが寺号の由来となっています。(樹齢を全うし枯れてしまったため残念ながら昭和45年に伐採されました。)
この大ケヤキの主が、樹源寺の第二十一世日健上人の夢枕に現れたという話が伝えられています。
「上人この時大病で茅に横たわっていると、夜中天女が来て申すには、我は欅の空洞に棲む白蛇である。朝夕響く法華経読誦の声にもはや成仏の因も芽してきた。即ち我を源龍大善神と敬いくれるならば、汝の病、たちどころに平癒するであろうと告げると思えば夢醒めた。そこで早速、欅の洞穴に小祠を設け祈ると、忽ち快癒してしまった、それからこの大樹にしめ縄を張りめぐらした。」(この文章は昭和42年12月29日付普通新聞に掲載されたものです。)
〈樹源寺墓所について〉
・過去の宗旨・宗派は問いません。
・ご遺骨のない方でもお求めいただけます。
・南向きに開けた、陽当たりの良い小高い丘に立地する墓域。
・明治末期から大正期にかけて活躍した劇作家 山崎紫紅の墓があります。