延仁寺
えんにんじ
物件情報
Property information
【延仁寺 沿革】
寺伝では、天台宗の宗祖最澄が開基であるとされている。本願寺第三世覚如が著した『本願寺聖人伝絵』 (『御伝鈔』)に、「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されているように、浄土真宗の宗祖・親鸞の遺体を、荼毘(火葬)に付した 寺院である。後に戦乱などの影響で廃寺となる。 当初は「西光寺」と称していたが、明治16年(1883年)に「延仁寺」と改称し、東本願寺第二十一代[2] 嚴如(大谷光勝)[1]により「荼毘所」を寄与される。
【親鸞の茶毘所】
延仁寺の道路の向かい地蔵堂の脇に「親鸞聖人御荼毘所」の碑が、隣接する延仁寺墓地の脇の「見真大師御荼毘所道」を登っていくと、「見真大師御荼毘所」の碑と親鸞の石像が祀られている。
【延仁寺墓地】
寺伝によると開基は最澄とされ、当初は延仁寺光明堂と呼ばれた洛東の古寺です。京都では親鸞上人の荼毘 所とその名を知られ、墓所の最深部にその標石と石柵を安置しています。緑深い木々に囲まれて京の町を一望する眺めは一幅の絵画のよう。東山三十六峰の山麓 に建つ同寺ならではの絶景といえるでしょう。
寺伝では、天台宗の宗祖最澄が開基であるとされている。本願寺第三世覚如が著した『本願寺聖人伝絵』 (『御伝鈔』)に、「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されているように、浄土真宗の宗祖・親鸞の遺体を、荼毘(火葬)に付した 寺院である。後に戦乱などの影響で廃寺となる。 当初は「西光寺」と称していたが、明治16年(1883年)に「延仁寺」と改称し、東本願寺第二十一代[2] 嚴如(大谷光勝)[1]により「荼毘所」を寄与される。
【親鸞の茶毘所】
延仁寺の道路の向かい地蔵堂の脇に「親鸞聖人御荼毘所」の碑が、隣接する延仁寺墓地の脇の「見真大師御荼毘所道」を登っていくと、「見真大師御荼毘所」の碑と親鸞の石像が祀られている。
【延仁寺墓地】
寺伝によると開基は最澄とされ、当初は延仁寺光明堂と呼ばれた洛東の古寺です。京都では親鸞上人の荼毘 所とその名を知られ、墓所の最深部にその標石と石柵を安置しています。緑深い木々に囲まれて京の町を一望する眺めは一幅の絵画のよう。東山三十六峰の山麓 に建つ同寺ならではの絶景といえるでしょう。