大谷本廟墓地
おおたにほんびょうぼち
物件情報
Property information
大谷本廟は、宗祖親鸞聖人のご廟所(墓所)であり西大谷とも呼ばれています。
親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊)において90歳でご往生になり、鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬、ご遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」に納められました。
その後、聖人の末娘である覚信尼(かくしんに)さまが諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門の北側の「崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、お堂を建てご影像を安置されました。
このご廟は「大谷影廟」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第八代蓮如宗主時代の「寛政の法難」(1465年)まで、およそ二百年間、諸国の門弟や同行によって護持されました。
以後、第十二代准如宗主時代の1603(慶長八)年、徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになりました。
以来、長い年月を経た現在も「大谷本廟」は、宗祖親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、お念仏の喜びに生かされる門信徒の方々によって立派に護持されております。
大谷墓地は、宗祖親鸞聖人のご廟所があることから宗祖のご遺徳を追慕する門信徒の方々がこの地に墓地を求められ、今日まで多くの墓碑が建ち並んでいます。
親鸞聖人は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊)において90歳でご往生になり、鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬、ご遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」に納められました。
その後、聖人の末娘である覚信尼(かくしんに)さまが諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺(現在の知恩院山門の北側の「崇泰院(そうたいいん)」付近)に改葬し、お堂を建てご影像を安置されました。
このご廟は「大谷影廟」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第八代蓮如宗主時代の「寛政の法難」(1465年)まで、およそ二百年間、諸国の門弟や同行によって護持されました。
以後、第十二代准如宗主時代の1603(慶長八)年、徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになりました。
以来、長い年月を経た現在も「大谷本廟」は、宗祖親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、お念仏の喜びに生かされる門信徒の方々によって立派に護持されております。
大谷墓地は、宗祖親鸞聖人のご廟所があることから宗祖のご遺徳を追慕する門信徒の方々がこの地に墓地を求められ、今日まで多くの墓碑が建ち並んでいます。