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聖徳太子が娶(めと)った4人のうちの本命は…

目次

昨年(令和3年)は1400年遠忌を記念した特別展も

1930(昭和5)年に百円紙幣の絵柄に初めて登場して以来、日本の紙幣(日本銀行券)の肖像画として最多となる7回採用された聖徳太子(574~622)。遣隋使派遣や十七条憲法制定、仏教の保護など、飛鳥時代の有能な政治家として活躍しました。とりわけ高度成長期に当たる1958(同33)年から1984(同59)年に発行された「C一万円券」が知られており、聖徳太子の名は高額紙幣の代名詞にもなりました。昨年(2021〔令和3〕年)は聖徳太子の1400年遠忌に当たり、各地で特別展も開催されました。

有力者は一夫多妻が普通だった飛鳥時代

父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:欽明天皇の皇女)。当時の有力者は一夫多妻が普通で、聖徳太子も4人を妻としましたが、そのうちの3人は推古天皇の娘と孫、そして一緒に政治を行なった豪族・蘇我馬子(そがのうまこ)の娘でした。もう一人は奈良の斑鳩(いかるが)を本拠地とする氏族の娘・菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ 別名・芹摘姫)で、太子が斑鳩に赴いた折、芹を摘む少女に一目惚れしたことがその馴れ初めとされます。太子の晩年は斑鳩に通い詰め(いわゆる通い婚)、8人の子を授かっています。菩岐岐美郎女は、太子が病に伏せると看病し、太子が亡くなる同じ日か1日違いで他界しています。

聖徳太子のお墓「磯長墓」に一緒に眠る2人の女性

聖徳太子のお墓は、大阪府太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか:遺跡名は叡福寺北古墳=写真上)と治定されています(『日本書紀』には「磯長陵」とある)。二重の結界石に囲まれた直径約55mの立派な円墳です(大阪府立近つ飛鳥博物館〔河南町〕に横穴式石室の復元模型がある)。そこには2人の女性が合葬されていますが、一人が太子の母、もう一人は4人の妻の中で最も身分が低いにもかかわらず、最も寵愛を受けた菩岐岐美郎女なのです。

ちなみに妻の一人、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ 推古天皇の孫)は、祖母である推古天皇に「太子が死後に行く天国の様子を刺繍にしたい」と頼んで作ってもらいますが、それがかの有名な日本最古の刺繍「天寿国曼荼羅繍帳」(国宝)です。実物は大部分が焼失してしまいましたが、そのレプリカが中宮寺(奈良県斑鳩町)にありますので、興味のある方は足を運んでみるといいでしょう。